菩提山正暦寺と共に
醸した特別な水端1355
菩提山正暦寺と共に
醸した特別な水端1355
水端1355では、⽇本清酒発祥の地として知られる、奈良菩提山正暦寺で醸された菩提泉の製法を参考に醸造。現代日本では完全に忘れ去られた夏季醸造の技術で醸された稀有な日本酒です。
「水端1355×菩提山正暦寺」では特別に、菩提山正暦寺によって育てられた露葉風を使用いたしました。
お酒造りを正暦寺の大原弘煕副住職にもお手伝いいただきながら、享保蔵にて共に醸造いたしました。
【菩提山正暦寺 大原弘煕副住職】
菩提山正暦寺でのお酒造りの始まりは、荘園で収穫された大切なお米を、神様に捧げる御神酒として造り始めたことからだと言われております。
実際に享保蔵の甕でのお酒造りは、目に見えない発酵の世界の難しさや魅力を当時の人々のように追体験することができました。
是非、日本清酒発祥の地 菩提山正暦寺に訪れ、当時に思いを馳せながら仏様に手を合わせて頂き、お酒を楽しんでいただきたいです。
水端1355×菩提山正暦寺では、菩提山正暦寺で栽培された露葉風を使用しました。
実際に露葉風を栽培されている田んぼにも足を運び、収穫前の稲穂も見ることができました。
元々伽藍があったとされている場所にある田んぼは、日当たりも良く心地よい風が吹いていました。
正暦寺で栽培される露葉風は、菩提仙川の支流の水を使い栽培されており、大地の恵みと清いお水により育てられた露葉風は粒が大きくお酒造りに適したお米が収穫されました。
そのお米を、麹造りから正暦寺の大原弘煕副住職と共に享保蔵で醸しました。
出来上がったお酒は、熟した桃などの果実と、麹由来の甘い栗が複合した重厚な香り。
露葉風の個性であるチリチリとした豊かな複雑味による押し味を感じつつ、切れの良い酸によってスッキリとした後口になっております。
「水端1355 2023年醸造」に比べかなり瑞々しく、全体的にシャープでコンパクトに仕上がりました。
日本清酒発祥の地 菩提山正暦寺と共に真夏に醸した稀有なお酒をお楽しみいただけます。
水端1355では、⽇本清酒発祥の地として知られる、奈良菩提山正暦寺で醸された菩提泉の製法を参考に醸造。現代日本では完全に忘れ去られた夏季醸造の技術で醸された稀有な日本酒です。
「水端1355×菩提山正暦寺」では特別に、菩提山正暦寺によって育てられた露葉風を使用いたしました。
お酒造りを正暦寺の大原弘煕副住職にもお手伝いいただきながら、享保蔵にて共に醸造いたしました。
【菩提山正暦寺 大原弘煕副住職】
菩提山正暦寺でのお酒造りの始まりは、荘園で収穫された大切なお米を、神様に捧げる御神酒として造り始めたことからだと言われております。
実際に享保蔵の甕でのお酒造りは、目に見えない発酵の世界の難しさや魅力を当時の人々のように追体験することができました。
是非、日本清酒発祥の地 菩提山正暦寺に訪れ、当時に思いを馳せながら仏様に手を合わせて頂き、お酒を楽しんでいただきたいです。
水端1355×菩提山正暦寺では、菩提山正暦寺で栽培された露葉風を使用しました。
実際に露葉風を栽培されている田んぼにも足を運び、収穫前の稲穂も見ることができました。
元々伽藍があったとされている場所にある田んぼは、日当たりも良く心地よい風が吹いていました。
正暦寺で栽培される露葉風は、菩提仙川の支流の水を使い栽培されており、大地の恵みと清いお水により育てられた露葉風は粒が大きくお酒造りに適したお米が収穫されました。
そのお米を、麹造りから正暦寺の大原弘煕副住職と共に享保蔵で醸しました。
出来上がったお酒は、熟した桃などの果実と、麹由来の甘い栗が複合した重厚な香り。
露葉風の個性であるチリチリとした豊かな複雑味による押し味を感じつつ、切れの良い酸によってスッキリとした後口になっております。
「水端1355 2023年醸造」に比べかなり瑞々しく、全体的にシャープでコンパクトに仕上がりました。
日本清酒発祥の地 菩提山正暦寺と共に真夏に醸した稀有なお酒をお楽しみいただけます。
現代のお酒好きにとって、また私たち醸造家にとっても“日本酒は冬造るもの”という概念があります。しかしこれは江戸時代になってからのこと。お酒造りの時期が冬に移行したのは、江戸幕府の米価格調整に端を発し、酒蔵側にとっても冬場の気温が低い時期に造った酒の方が衛生的にも造りやすかったこともあり、1700年頃から、急速に冬季醸造へ移行していったのです。
さらに日本の首都である江戸の人口は1700年代には100万を超え、都市としては世界一の人口になっていたとも言われます。そこで消費されるお酒の主要供給元として伊丹や灘では、一層の生産性を求められる時代になっていました。冬場の方が農閉期ということもあり、労働力を確保しやすかった、という点も冬季醸造の大きなメリットとなりました。
それではこのことが詳しく読み取れる四季醸造から冬季醸造への移行期に書かれた、参考文献『童蒙酒造記』を繙ひもといてみましょう。
江戸時代初期の本ですが、この中に興味深い記述がいくつも登場します。
「10年間の酒の相場」という項によると、延宝7年(1679)の暮れは次のような相場でした。
江戸へ出荷する諸白は十駄につき、金九両一分
※ 十駄は約七石(七十斗)金 一両は現代換算で約7万5000円 一斗約18ℓ
更に延宝8年(1680)の9月と11月に、幕府から出された、今で言う法律のような「酒御法度御触書」が公布されて以後はこうなります。
江戸へ出荷する諸白は十七両まで値上がりした。この値段でも上質の酒は売り切れ、総利益は3割余りあった。
九両一分の酒が十七両になるわけですから、1・9倍に値上がりしたことになります。なぜ、このように急に諸白の価格が値上がりしたのかというと、「酒御法度御触書」というものが、この年に新酒造り(立秋から秋の末〔8~10月頃〕までに造酒)を禁止し、寒造りを前年の半分とする御触れだったからです。幕府がお酒造りの量を規制しているのです。これは米相場のお米の価格を安定化させることが、幕府の政治安定化に直結しているからと言えるでしょう。規制された側(酒蔵)は、この法に則りお酒造りを行うことになりますから、当然冬にお酒造りを集約していきます。
それでは、禁止された新酒造りと言われる5~10月(暑い、暖かい時期)に造る夏季醸造のお酒はどのようなものだったのでしょうか。驚くことに、1680年頃にはまだ夏にもお酒が造られていたのです。その答えもこの『童蒙酒造記』第2巻の酛(酒母)の項に記述があります。この項では当時に存在した3種類の酒母の醸造方法と、それらの酒母を用いて行う酒造時期について明記されています。現代から考えると、とても違和感があるかもしれませんが、江戸時代のこの頃には酒母の種類を変えることで暑い時期でも寒い時期でも安全に醸造を進め、お酒造りを行うプロセスが確立されていたのです。日本酒の製造方法が今より多様な時代だったことがうかがえます。
ここで記される3種類の酒母は、
です。
それぞれの酒母を造る時期についての記述をピックアップします。
夏から秋口までは「菩提酛」、秋から寒くなるまでは「煮酛」、寒くなれば「水酛」という考え方です。これはまさに、当時のお酒造りの技術者が外気温の変化に応じて、たくみに酒母の種類を使い分け、季節を問わず、それぞれの時期に応じてお酒造りを行っていたことの証明です。季節が異なるということは、気温が異なるということです。その時にお酒(原料)に寄り付く微生物も異なります。それぞれの時期に存在している微生物をたくみに操り、時には殺し(煮酛)、その働きを利用していたという点は驚愕です。微生物の存在すら確認されていない当時、試行錯誤の中で確立した、神がかった技術といえるでしょう。
このように、四季折々でお酒造りが行われたのは、江戸時代初期の頃までと言えます。先述の通り、幕府の命により寒造りに醸造時期が移行していくからです。そのため、残念ながら夏秋の醸造に適した菩提酛や煮酛は寒造り全盛の時代に表舞台から姿を消すことになっていきます。そして主力になるのが冬季醸造に適した文献の中で描かれた水酛です。これはこの文献の製造工程を読むと明らかに現代の生酛造りの原形とも言える技術です。現在、水酛という言葉は菩提酛と近い酒母の醸造技術として紹介されることが多いですが、『童蒙酒造記』の記述においては、菩提酛とは全く種類の異なる「水酛」として描かれています。
今回の水端1355では1355年に編纂された『御酒之日記』の菩提泉の造り方を参考に醸造いたしましたが、これと全く同じメカニズムの技法が、300年後の『童蒙酒造記』の中でも菩提酛という確立した技術として語り継がれている事がわかります。これらの忘れ去られた技術によって現代人が今まで味わった事のない、暑い夏の高温発酵によって酒を造るという現在の常識からはかけ離れたお酒を水端1355では現代に再現いたしました。
現代のお酒造りの仕込み方式は「段仕込み」と呼ばれます。はじめに小さな酒母(発酵の元になる少ない量の醪)を造り、その上に蒸米、米麹、水を加えて、混ぜて時間をおいてプツプツと発酵が進んできたところにまた蒸米、米麹、水を加えます。そしてまた次の日に蒸米、米麹、水を加えるというように、「酒母」の上に「初添」「仲添」「留添」の3回に分けて投入し、発酵を進める三段仕込み法を行っています。
このように3回に分けて発酵の様子を確認しながら、原料を酒母の上に足していくことで醪の容量を拡大させていきます。この技術も寺院醸造の中で進化した清酒造りの大切な技術的要素の1つです。
水端1355で参考にした『御酒之日記』に描かれた菩提泉の製法では、木桶と比較すると小さな3石程度の大甕で酒造りを行っていた時代のため、気候条件が良ければ(暖かい夏であれば)何度にも分けて仕込む必要がなく、1回で原料をすべて加えることができる規模だったのです。
複数に分けて原料を投入せず、酒母そのものを搾る酒造りのため今回の水端1355ではこれを0段仕込みと表現しました。