興福寺と共に醸した
特別な水端1568
興福寺と共に醸した
特別な水端1568
水端1568では、「多聞院日記」の1568年の記述を参考に醸造。大甕で仕込みながらも現代の酒造りに通じる3段仕込みを行い、冬の寒い時期に微生物を巧みにコントロー
ルし、奈良酒の名声を高める高品質な酒造りを行っていたことが伺えます。
「水端1568×興福寺多聞院」では特別に、興福寺縁の地から湧き出た水を用いて仕込みました。また常如院(興福寺山内)の辻明俊院主と共に、麹造りから享保蔵にて醸造いたしました。
【興福寺常如院 辻明俊院主】
享保蔵で当時に近いお酒造りを経験し、目に見えない世界との対話を大切にする仕事は、試行錯誤を繰り返し、先人から脈々と受け継がれてきた記憶や文化であると実感しました。その知恵と技を次の世代に継承していく1人になれたことを、とても嬉しく思います。
【2023年醸造】
「興福寺多聞院日記×水端1568」では、興福寺縁の地から湧き出た水を仕込みに使用しました。この水は春日奥山から長い年月を経て流れ出た清浄なもので、実際にその地に赴い
て取らせていただきました。
昔から、興福寺には春日山を水源とする清浄な水が豊富にあったことが知られており、その水は当時の酒造りに活用されていました。また、荘園からの豊富な年貢米が酒造りを支
え、その技法も研鑽されていったと考えられます。
普段、享保蔵では葛城山系の深層地下水を使用し、超硬水での仕込みを行っていますが、今回の仕込みではミネラル分の少ない軟水を使用しました。これにより、発酵の立ち上が
りが控えめとなり、最高温度が通常より約5℃低くなって発酵がスタートしました。その後も品温は緩やかに下がり、同時期に醸造した「水端1568 2023年醸造」よりも低い温度
経過を辿りました。
出来上がったお酒は、お米の甘さや旨味がしっかりと感じられますが、トロミが少なく軽やかな口当たりです。さらに、超硬水による後口の押しが少なく、全体的にシャープな味
わいに仕上がりました。
中世、大和の国を治め、多くの独創的な文化を生み出してきた興福寺。その地から湧き出る水を用いて醸した、稀有なお酒をぜひお楽しみください。
水端1568では、「多聞院日記」の1568年の記述を参考に醸造。大甕で仕込みながらも現代の酒造りに通じる3段仕込みを行い、冬の寒い時期に微生物を巧みにコントロー
ルし、奈良酒の名声を高める高品質な酒造りを行っていたことが伺えます。
「水端1568×興福寺多聞院」では特別に、興福寺縁の地から湧き出た水を用いて仕込みました。また常如院(興福寺山内)の辻明俊院主と共に、麹造りから享保蔵にて醸造いたしました。
【興福寺常如院 辻明俊院主】
享保蔵で当時に近いお酒造りを経験し、目に見えない世界との対話を大切にする仕事は、試行錯誤を繰り返し、先人から脈々と受け継がれてきた記憶や文化であると実感しました。その知恵と技を次の世代に継承していく1人になれたことを、とても嬉しく思います。
【2023年醸造】
「興福寺多聞院日記×水端1568」では、興福寺縁の地から湧き出た水を仕込みに使用しました。この水は春日奥山から長い年月を経て流れ出た清浄なもので、実際にその地に赴い
て取らせていただきました。
昔から、興福寺には春日山を水源とする清浄な水が豊富にあったことが知られており、その水は当時の酒造りに活用されていました。また、荘園からの豊富な年貢米が酒造りを支
え、その技法も研鑽されていったと考えられます。
普段、享保蔵では葛城山系の深層地下水を使用し、超硬水での仕込みを行っていますが、今回の仕込みではミネラル分の少ない軟水を使用しました。これにより、発酵の立ち上が
りが控えめとなり、最高温度が通常より約5℃低くなって発酵がスタートしました。その後も品温は緩やかに下がり、同時期に醸造した「水端1568 2023年醸造」よりも低い温度
経過を辿りました。
出来上がったお酒は、お米の甘さや旨味がしっかりと感じられますが、トロミが少なく軽やかな口当たりです。さらに、超硬水による後口の押しが少なく、全体的にシャープな味
わいに仕上がりました。
中世、大和の国を治め、多くの独創的な文化を生み出してきた興福寺。その地から湧き出る水を用いて醸した、稀有なお酒をぜひお楽しみください。
現代の清酒造りの仕込み方式は「段仕込み」と呼ばれます。酒母を造り、それに原料である蒸米、米麹、水を加えて、混ぜて時間をおいてプツプツと発酵が進んできたところにまた蒸米、米麹、水を加えます。そしてまた次の日に蒸米、米麹、水を加えるという、「初添」「仲添」「留添」の3回に分けて投入し、発酵を進める3段仕込み法(3段掛法)を行っています。
このように3回に分けて発酵の様子を確認しながら、原料を酒母の上に足していくことで醪の容量を拡大させていきます。この技術も中世の寺院醸造の中で確立していった現代のお酒の大切な技術的要素の1つです。
現代の3段仕込み法に近い記述の初見は水端1568で参考にしている『多聞院日記』(巻13)の永禄11年(1568年)の酒の記述で、初段(初添)、第二段(仲添)、第三段(留添)の3回に分けて原料を仕込んでいたことがわかります。水端1355で再現している『御酒之日記』に描かれる菩提泉は一回で全ての原料を投入し、それを搾った0段仕込み、同じ『御酒之日記』の中で描かれる御酒は一段仕込み(酒母に対して1回掛ける)法、また天野酒は二段仕込み法であり、これは現在の段仕込みの先駆けと言えます。
甕で実際に水端1568を3段で仕込んでみてわかったことですが、真冬にお酒を仕込む場合、一旦仕込んだ後にもろみが冷えてしまうと、発酵が進みやすい温度に上げることが非常に難しいことがわかりました。そのため、甕で仕込む場合でも、少ない物量から原料を投入して、仮に冷え込んだ場合は、手を入れ温度を高め、発酵を促進するなどし、慎重に発酵の状況を確認した上で、何度か原料を投入していく必要があるとわかりました。このことから、水端1568で参考にしている『多聞院日記』の記述の中で冬場に3段仕込みをしている記述は非常に理にかなったものだと確信いたしました。
この段仕込みの技術が、1500年代後半以降お酒の生産量が拡大をしていく時代に、醸造容器が甕から木桶に移行していく過程でも応用され、段階的に原料を加えていくことで発酵を健全に進め、大きな容器でも安全に醸造することができるというということに繋がっていったと考えられます。
正暦寺や興福寺で醸された僧坊酒と言われるお酒が造られるようになったのが室町時代。それがどのように、そして誰が飲んでいたのかが気になるところです。
甲斐の武田氏を滅ぼした織田信長が長年の同盟関係に謝意を表し、近江の安土城へ徳川家康を招きました。天正10年(1582)5月15日のことです。その時の接待係が明智光秀で、その対応について後で信長に叱責され苦悩して本能寺の変に繋がっていった……というエピソードは皆さんもご存じかもしれません。その大きな宴では都だけでなく、奈良町中諸方へも用命があり、興福寺大乗院からは様々な献上品と共に、「山樽三荷諸白上々」を献納した(『多聞院日記』巻28・同月12日条)と記述があります。
この「山樽」とは、まさに菩提山正暦寺の菩提山酒、または興福寺大乗院方菩提谷の寺坊で醸造された僧坊酒だと考えられています。興福寺大乗院というのは、今の奈良ホテルがあるところです。この諸白献上についてはのちに「比類無いものとして、上一人から下万人にいたるまでいずれも称美しないものはいなかった」(『多聞院日記』巻28・同18日条)との書状が安土の信長より送られたと記されています。
奈良の大寺院で造られた僧坊酒は、信長や家康も喜んでこぞって楽しんだと言われているのは、この記述が元になっているようです。